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金融界のクレジットカウンセリングへの取組み

日本クレジットカウンセリング協会賛助会員をみると、日本貸金業協会・全国銀行協会・クレジット・信販会社等事業者主体の組織である。消費者団体が賛助会員になっていない。それはなぜか? 日本クレジットカウンセリング協会は消費者金融業者の減少で、その埋合せを協同組織金融機関にも広げようどしているのではないか? いまさらという感じでしかない。日本クレジットカウンセリング協会より賛助会員の勧誘があったが、全国労働金庫協会は加入していない。多重債務問題対策プログラムのなかでも、セーフティネット貸付の担い手として登場していない。なぜ銀行の名前がないのか、考えてほしい!

相談体制やカウンセリングを株式会社組織の金融機関に期待しても無理ではないか。改正貸金業法が成立して以来、多くの消費者金融業者が廃業・倒産している。いままで消費者金融業界に直接・間接的に融資し利益をあげてきた金融機関は、多くの破産債権を抱えるだろう。管理回収のために債務者を追い詰めるようなことは社会的に許されない。そうした状況下で金融界の今後の課題を考えた場合、社会的信頼を得ようとするなら、いまこそ、譲渡を受けた個別債権のなかで過払い状態にあるものは、自主的に公表し返還するぐらいのことでなければ評価されないと思う。

なお、クレジットカウンセリングの取組みのあるべき姿を考えた場合、公正・公平性をもたせる意味で消費者庁「消費者相談ダイヤル」にカウンセリング機能をもたせる一方、関連事業者は負担金を拠出するのみにとどめ、口を出さないようにしたらどうだろうか?株式会社組織の金融機関とは異なり、協同組織金融機関は地域密着、顔のみえる相互扶助による自助の推進を基本理念としている。労働金庫・信用金庫・信用組合・農業協同組合のいずれも、創業の原点は労働者の高利貸しからの解放や農民の借金整理組合から出発している。

どれも営利を目的とせず、「貧困からの脱出を目指す」協同組織金融機関であったはずである。最近、中央段階では多重債務問題で農林中金総研や全国信用金庫協会、信金中金総研との意見交換が行われるようになった。それぞれの中央機関は多重債務の実態と対応の必要性を関係組織にメッセージしている。それを受け、協同組織金融機関は顔のみえるセーフティネット貸付の実現に向け具体的に動き出している。現代の多重債務問題は、一部の協同組織金融機関のかかわりだけでは限度があり、協同組織金融機関の協働がいまこそ必要と考える。

1983年「反サラ金キャンペーン」

1983年の反サラ金キャンペーンから10年が経っていた。現場ではバブル崩壊後、多重債務相談が再び増えていた。サラ金地獄のときの対応で養ったノウハウを生かし問題解決にあたっていたが、内部では過去のサラ金清算融資の傷跡を抱えトラウマに陥っている現場もあり、1983年当時のような熱気はなく、全国規模の統一対応も講じられていなかった。しかしサラ金地獄の時代と同様、利用者の大半が労働者とその家族だったため、個別金庫には多くの相談者が訪れていた。いくつかの金庫ではすでに良識ある弁護士や司法書士等専門家とのネットワークを築く一方、救済活動や教育活動を行っていた。

全国労働金庫協会は1999年度の教育研修計画に消費者アドバイザー講座を試行的に導入。会員・企業・高校・地域団体を対象に、一部金庫で進められ好評となっていた消費者教育実践活動(クレサラ問題、悪質商法、多重債務問題)などに対応できる人材教育を開始した。2003~2006年 中央労福協の果たした役割、高金利引下げ運動の成果自己破産者が過去最高を記録した2003年7月、ヤミ金対策法(貸金業規制法および出資法の一部改正法)が成立、3年後の出資法の上限金利見直しが決まった頃を境に高金利引下げを求める運動が一気に加速した。

2005年5月、日弁連の高金利引下げ署名活動が始まり、同年12月からは労働者中央福祉協議会(中央労福協)が多彩なメンバー(弁護士・司法書士、被害者の会・消費者団体・学者・生協・労金協会・農林中金総研・連合本部・労働組合産別など)に呼びかけ、管井義夫中央労福協事務局長と宇都宮健児弁護士を共同代表にして「クレ・サラの金利問題を考える連絡会議」を結成し、運動に呼応していった。6ヵ月間で341万人(うち労福協290万人)の署名を集め、国会議員の理解も党派を超え広がっていく。多くの被害者を出し続けてきたサラ金二法であるが、地道な運動が新たな市民社会運動を生み出し、2006年12月の抜本的改正(貸金業法制定)の成立をみるに至ったものと考えている。笹森清中央労福協会長は新たな運動を次のように評価した。「同質の和は足し算にしかならないが、異質の和は積となる!」。

労金はサラ金対策運動をリードしたが

1983年8~10月に実施された「サラ金対策キャンペーン」は全国紙・地方紙76紙に延べ96回、テレビは地方局を含む20局で取り上げられ、大きな反響を呼んだ。この期間中の相談者は3万件を超え、全国の労金窓口に直接柑談に来た人は1万3,000人余、うち3,500人に対し113億円の高利肩代わり融資を実行した。このキャンペーンはサラ金問題に対する世論を大きく喚起し、ろうきんの役割や存在感を改めて社会の内外にアピールすることとなり、その知名度は飛躍的に高まった。

しかし、前記『サラ金問題の実態と対策』の理解不足もあり、急増した相談に対してはカウンセリング手法も整わず、正義感だけでは根本的な問題解決には至らなかった。程度の差こそあれ、高利肩代わり融資実行後の管理回収に苦慮し、一部金庫では不良債権化するという残念な結果も表面化した。貸金業規制法が成立したとき、「少しは改善されるのかな?」と現場で思っていたが、1985年から自己破産者・相談者も減少に転じるなか、多くの人たちが勘違いをして運動から後退をしていった。

やがてバブル経済の時代に入ってゆく。泡だらけになり、泡が吹き飛んだ時、いままでにないさまざまな悲劇が現れてきた。ザル法といわれたサラ金二法は、43条(=みなし弁済)条項の存在、上限金利109.5%→40.004%で高利解消ならず、その後グレーゾーン金利解消まで25年強の間は業者寄りの糊塗・弥縫を繰り返し、被害者を飛躍的に拡大させていく。1993~2002年 多重債務者の立場に立つバンカーは存在しない!といわれバブル経済が崩壊し、1ヵ月10万円前後もあった残業代が突然なくなる。バブルに踊らされ、大量消費で浮かされていた労働者の生活は一変する。若者のカード破産と書きたてられ、いわれなき中傷を受けていた時期(1992年)に宮部みゆき『火車』が発売された。

1993年、静岡県清水市で「全国クレジット・サラ金問題対策協議会・被害者交流第15回記念集会」が開催され、現地実行委員会からパネリストの要請が来た。要請文の冒頭には次のように書かれていた。「多重債務者の立場に立つバンカーは存在しない! そのなかで唯一労働金庫だけがサラ金問題・多重債務者救済を手がけている金融機関」と。パネルディスカッションで静岡労金の取組みを報告したところ、会場から手が上がった。「静岡労金だけでしょう? 私の地元の○○労金は門前払いよ!」言い訳のしようがなく、恥ずかしかったことを思い出す。質問した弁護士さんはいまでも覚えている。

労働金庫の創立 労働者の高利貸しと質屋からの解放を掲げて!

話は第二次世界大戦敗戦後の労金設立期にさかのぼる。当時、敗戦後の復興において商業銀行の融資は大半が企業金融であり、生活者融資は存在していなかった。当時、労働者の頼むとするところは高利貸しや質屋であり、それが労働者の生活に大きな脅威となっていた。貧困とそれを助長する高利貸し・質屋等から労働者を解放するために、労働金庫は労働運動と協同組合運動のなかから47都道府県に設立されていった。以後、労働者が高利貸し・質屋に頼ることなく生活向上のための資金提供(低利融資)を行い、多くの労働者を高利貸しや質屋から守ってきたのである。

しかし1970年代後半になると、オイルショック以後の不況の深刻化とともに、質屋の衰退と入替りにサラリーマン金融が暗躍するようになってきた。時を同じくして労金会員労働者のサラ金被害報告が多発し出した。全国労働金庫協会第二専門委員会は1978年11月28日、「労働金庫のサラ金対策」として次のように答申した。「ろうきんは設立のころ、高利に苦しめられた労働者に積極的な救済の手を差し伸べてきた輝かしい実績と歴史を持っている。社会環境の変化はあっても、今日のサラ金は『高利貸』の現代版であり、さらに関心を深めなければならない。特にサラ金利用者の9割前後が労働者とその家族であり、したがって利用者は他ならぬ労金の構成員もしくは今後労金に組織されうる可能性をもった人たちが大部分である。

その意味で、サラ金対策は労金自体の課題として受け止めなければならない」そして具体的には、①サラ金規制運動の推進、②統一的教育宣伝活動の推進、③貸付制度の改善努力、④被害者に対する救済、⑤地方自治体との提携融資制度の拡大、⑥別団体による対応、の6つの方針を提起した。全国の労働金庫は労働者の生活を守るため賢明に努力するが、前述したように当時の政府・自民党の対応は冷ややかであり、業界野放し状態、事態の悪化は急激に進む。サラ金地獄の進展に対し、労働団体は運動の路線を乗り越え共同の緊急アピールを出す。

「多重債務問題改善プログラム」の意義とは

2006年12月の貸金業法成立後、政府内に多重債務者対策本部が立ち上がり、2007年4月20日に「多重債務問題改善プログラム」が示されてからは、これが自治体における多重債務対策の手本とされた。施策自体は少数だったが、影響力は抜群であった。また、金融庁の信用制度参事官室の活躍も抜本改正に大きな役割を果たした。中央官庁の職員が高金利引下げ運動の現場に来て、直接被害者や運動の当事者の話を聞いたりメッセージを出したりすることは、大蔵省時代にはみられなかったことである。

1981年、大阪・中之島公会堂で被害者たちが自らの体験に基づき「泥沼からの訴え」をテーマに始まった全国クレサラ被害者交流集会は、2008年11月8日に開催された第28回秋田交流集会で「もはや本交流集会は私的な運動団体の集会ではなく、広く関係省庁(内閣府・総務省金融庁等、自治体関係機関)からの後援を受けた官民共同の集会となり、大変社会的責任の重い集会になったと、クレサラ対協代表幹事の木村達也(弁護士)から宣言された。

1990年代の初め、労金の支店長として金融検査を数回受けた。多重債務者救済融資の査定では、延滞もなく再生に努力している債務者に対する差別的偏見など、嫌な思いをしたことを覚えている。だが現在では、多重債務者対策本部有識者会議の中間報告にあるように、評価は大きく変化してきている。

消費者金融全盛期 バブル発生・崩壊から日本版ビッグバン・金融危機まで

最高裁が個人破産統計の集計・公表を開始した1982~2008年の数字をみた。27年間で225万3,256件、特に北海道拓殖銀行や山一証券が経営破綻した1997年以降の12年間で189万3,976件と異常な事態であった。貸金業者は1983年の貸金業規制法改正で43条(いわゆる「みなし弁済」)のお墨付きを得て増長し、バブル期には個人破産者の減少傾向を奇貨として貸込みに走った。また、国はバブルが弾け景気が戻らず国内金融危機を迎えると、規制緩和・市場原理主義を基本政策として、個人生活のフォローは消費者金融が行っているがごとき対応でサラ金業者を擁護し続けた(規制緩和の時代に規制強化は乗る気ではなかった)。

2006年の改正貸金業法成立(抜本改正)まで、実に四半世紀もかかってしまったのである。この間、政府および地方自治体の多重債務問題(カウンセリング等)の取組みが十分だったといえる時代ではなかった。それは個人破産件数の数字の推移からも読み取れる。自己破産10万件突破一多重債務問題は社会問題として無視できず自己破産件数は1998年に10万件を超え、現在に至るまで10万人を超え続ける異常事態が続いている。

多くの多重債務者が問題解決を求め、自治体の窓口等に駆け込むのは必然だった。このようななかから、鹿児島県奄美市の禧久孝一氏など「スーパー公務員」と呼ばれる人たちが出現した。30年前の「第一次サラ金問題顕在化」時代にはなかった言葉である。また、多くの多重債務被害者が自ら直接声を上げ、臨場感ある体験を語った。司法がこれだけの異常事態に気づかぬはずはない。